
どうしてもそのような子にイライラしてしまうのですが、どのように向き合い、指導をすればいいのでしょうか。
このようなお悩みを解決します。
こんな方におすすめ
- 子育てがうまくいかずに悩んでいる
- 手のかかる子が学級にいて、困っている
- 悪さをする子どもとの向き合い方がわからない
教員をしていると、何でも否定的であったり、友達に対して攻撃的であったりと手のかかる子との向き合い方に悩むことも多いと思います。
私自身もそのような子の対応や支援の仕方がわからず、どうしてもイライラして、そのイライラをぶつけてしまうこともよくありました。
ですが、専門性のある職業の我々が「教師だって人間だから仕方ない」と言い訳をして、このような子を放置しておくということはできません。
そこでどうすればいいかと悩んでいたところ、今回紹介する内容が詰まった書籍に出会いました。
それが河合隼雄さんの『子どもと悪』です。
この本を読み
そもそも悪とはどういうことなのか
どうして子どもは悪さをするのか
など学ぶことができました。
今回は、そのような内容の中から私が大切だと感じた部分について紹介します。
全編が気になる方は、ぜひ購入してみてください。
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現代の子育てについて
現代の子育てや教育の方向性について考えると、子どもの時期を大人になった時に成功するための貯金期間と捉えているのではないでしょうか。
「今頑張っておけば将来いいことがあるぞ」
と理屈で子どもに無理をさせる。
毎日のように違う習い事をしている子は典型ではないでしょうか。
全ては将来のための投資と考え、子どもを大人の予備軍にしか見ていない。
この考えは、子ども時代そのものに価値を置いていないと言えます。
一昔前までは、子どもの簡単に病気で亡くなっていた時代であったため、子どもはとてもか弱く、いつ急にいなくなるのかわからないというのが社会の常識でした。
子どもがいついなくなるかわからないと思えば、今のうちに好きに遊ばせておこうと思うのも自然な発想です。
しかし、今はこの部分が全く重要視されていない。
子どもには、子どもの人生があり、その毎日がとても大切なんだと考える。
これが子どもを真の意味で大切にするという基本だと思います。
子育てにあたっては、親が気をつけるべきことは極論を言うと
子どもを危ない目に合わせないこと
食事をきちんと与えること
この2つです。
「自分がこれだけ手をかけたんだからいい子になった、賢い子になった」
と親は思いたいでしょう。教育関係者だってそうだと思います。
何でもコントロールできると思っているから、子どもに対してもそう思うのでしょう。
しかし、子どもは基本的に勝手に育っていきます。
兄弟であったり、友人関係の中の方が言うならばより育ちます。
あれこれ詰め込みすぎて、今この瞬間を大切に味わわせていないか。
改めて問うてみても良いかもしれません。
現代の「よい子」とは?
では、次に視点を「よい子」に当ててみましょう。
現代の日本は教育熱心であるがゆえに、何とかして「よい子」をつくろうとしています。
そして「よい子」にするために子どもから「悪」を排除しさえすればいいと単純に考えている人が多い。
この考えは本当に正しいのでしょうか。
個性を伸ばすことが日本の教育においても重視されて久しくなりました。
それは、日本人が画一的ではなく、それぞれ個性を持った人間として他国の人々と付き合う必要性を強く感じるようになったからです。
しかし、いわゆる個性を持った人、特に創造的な活動ができる人というのは、どこか「悪」の臭いがするものです。
このような人たちは、子どもや青年の頃に「生意気だ」と言われた人も多いはず。
「よい子」のイメージである「素直でいうことを聞いてくれる子」「明るく、いつでも友達と仲良く」ということはもちろん、いいことです。
しかし、このような大人が思う「いいこと」を全て子どもに押し付けていいのでしょうか。
押し付けすぎるがゆえに、新たな可能性の芽を摘むことになっていないでしょうか。
このように逆の視点から考えてみることも大切です。
子どもが自立に至るステップとして反抗があります。
時に「悪」という形で表れる反抗は、往々にして自立の契機につながります。
自立の契機と見ると、大人が「悪」と見なしていることを敢えて子どもがするのは、ある種大人に対する宣戦布告のようなものであり、「大人の言う通りには生きてはいかないぞ」と言う強い意志の表れでもあります。
親や教師が「悪」を排除することによって、「よい子」をつくろうと焦ると、かえって大きい悪を招き寄せることになるかもしれません。
このようなことを認識しておくことは非常に大切です。
そもそも悪とは何か
では、そもそも「悪」とは何なのでしょうか。
1番明白な場合は、人は自分を殺そうとする者に対して「悪」を感じるということです。
そう考えると、人は自らの存続のために何らかの集団を作っているため、その集団を否定されることも「悪」に感じるのではないでしょうか。
安泰な世界を「善」とするならば、それを破る者・壊しかねない事象が「悪」となるのです。
集団について話を戻すと、集団の維持にはある種のきまりが必要となります。
なので、そのきまりを破ることは「悪」と見なされるでしょう。
その行為は、集団の秩序を破壊することに等しいからです。
教師が学級や学校のきまりを守らない子に対して必要以上に目くじらを立ててしまうのも、秩序の破壊=「悪」が関係していると言えます。
子どもの悪について

確かに「悪」が一定の度合いを超えると、取り返しのつかないことになります。
子どもも、そのことは知っておかなければいけません。
このことを心得て、本当に大切な時に踏みとどまるためにも、やはり子どものときに何らかの深い根源的な「悪」を体験することは重要だと考えます。
実際に体験し、その怖さを知り、二度とやらないと固く決心をすることが子ども時代に必要だからです。
だからこそ、子どもの体験する根源的な「悪」というものは厳しく拒否してはいけません。
親や教師としては、愛をもって、それを犯した子どもを叱り、受け入れ、関係を回復することに努めること。
もしも、体験しっぱなしであったり、「そんな悪い子は知らない」と関係を断ってしまったりすると、本当にそのまま悪の道に転げ落ちることになりかねません。
では、次からは、子どもの行うであろう「悪」について詳しく触れていきます。
盗み
まずは盗みについてです。
盗みは「悪」であることをよく知っていても、それが魅力を持つことを子ども心に感じ、その行為をしてしまったという思い出がある人も多いのではないでしょうか。
盗みには、スリルがあり、魅力があります。
これは、盗みを賞賛しているというわけではありませんし、盗みは悪いことなので禁止しなくてはいけません。
しかし、その悪の中に深い意味があることは知っておかなければいけません。
このような逆説が満ちているのが人生であり、それを身をもって知っている先人として、子どもの悪に接することが必要だと考えます。
子どもの盗みに関しては、その子が自身の生存・成長にとって何か「必要不可欠」なものを得ようとしていると考えることができます。
大人として、盗みは絶対にいけないと教えることも大切ですが、
それと同時に、その子の生存・成長にとって必要なものだったのか、どう繋がっているのか
と深く思考を巡らせる必要があります。
暴力性・攻撃性
男の子というのは、乱暴さを持ち合わせています。
しかし、親(特に母親)は子どもを「よい子」にしようとし過ぎて、あまりに野性味のない子にしてしまう傾向が強くあります。
ですが、平和愛好者になるためには、子どもの時に殺したり殺されたりする遊びをしたり、虫を殺したりすることも必要です。
攻撃的なことを一切抜きにして育てようとすると、かえって逆効果を生むこともあります。
そもそも「暴力」は絶対的に「悪」であることは、この平和的な日本で相当強く行き渡っています。
これは少し徹底すると、全て攻撃的なものは悪いということになり、子どもに一切攻撃的な遊びを禁止するなどという極端なことが生じかねません。
アグレッシブさ
日本では、「穏やかで元気がよく周りと仲良くできる」ということが「よい子」のイメージとして定着していますが、アメリカではそうではありません。
アメリカでは、自分ということを前面に出し、それを妨害する者には向かっていくアグレッシブさの方が評価されます。
日本では、このような子は「競争心や闘争心があり過ぎる」とあまり好まれないのではないでしょうか。
教育現場においても、極力競争を排除しようとする人もいます。
しかし、一方で一様な序列づけるシステムの中で、できる限り上を目指し競争させる「受験」を大切にもします。
子どもの個性で競争させず、一様な世界の中で行われる競争は、本来のアグレッションとは異なり、むしろアグレッシブさや個性を抑えなければいけません。
そのような態度を身につけた子が、受験以降あまり創造的にならないのは当然でしょう。
日本人は、アグレッシブさを「悪」とまではいかないものの「よくないもの」と捉える考え方を変えていかない限り、国際社会の中で生き抜いていくことは難しいかもしれません。

そういうわけではありません。
ただ押さえ込み過ぎることがよくないということです。
暴力性や攻撃性、アグレッシブさを上手く昇華できるものがあります。
それがスポーツです。
スポーツの良いところは、自分の持つ攻撃性をルールによって守られながら出せることです。
これによって自分の攻撃性をコントロールすることも自然と学ぶことができます。
遊びの中の攻撃性
子どもにとって、自由に遊ぶことは心の癒やしという面でもとても大切です。
ゲーム性のある遊びの中では、自由に遊んでいると、だんだんと子どもたちが勝ちたいという意欲を出してきます。
そして、普通には勝てないと思うと、ルール破りを始めることもあります。
子どもはルール破りが許容・黙認されると思い始めると、あまりに何をやってもいいので、限界がわからなくなり、無茶苦茶な行動をとってしまいます。
なので子どもたちには、自由といっても「これ以上はダメだ」という明確な線がなくてはなりません。
その線を教師側が持っておくようにしましょう。
感情
アグレッシブさに共通することですが、知性を重視すると、常に自分を抑制することが善とされ、感情の強い表現は悪とされがちです。
また、「よい子」を生み出そうとする大人は、子どもが怒ったり、悲しんだりすることを忌避する傾向にあります。
子どもの成長を考えると、泣くことも怒ることも非常に大切であり、様々な感情を体験してこそ、豊かな人になれます。
このような考えを教師側が持っておくと、感情を爆発させている子に対しても関わり方が変わってきます。
感情を制圧しようとするのではなく、その子を受け入れ、傾聴すること。
しかしその子自身や他人に対して危害が加わりそうな時は「ダメだ」と毅然とした態度を保つこと。
このようなステップを継続するだけでも、きっとその子との関係性は変化してくるでしょう。
笑い
基本的に笑っていることは歓迎されます。
しかし「笑い」というのは、人を「笑いものにする」という場合において、一種の攻撃性を秘めています。
例えば、生徒たちは何とかして教師を「笑いもの」にしようとします。
そして、それに対して教師が怒れば怒るほど面白がるのです。
中学にもなると、クラスの中にこのようなことを仕掛けるトリックスターが必ずいます。
トリックスターは、教師から見ると「悪」であるし、生徒から見ると「英雄」に見えたりします。
生徒のトリックによって教師が笑いものになり、カンカンに怒ることは、かえって教師の権威を落とすものとなります。
逆に教師が生徒のトリックを楽しんで一緒に笑ったりすると、そこに生徒と教師の間の一体感が生まれ、親しみを感じたりするものです。
ウソ
子どもから大人になる過程で、嘘もつかずに、秘密を持たずに生きてきた人はいるでしょうか?
誰しも嘘をついたり、親や先生には言えない秘密を持ったりしたはずです。
「ウソ」や「秘密」も、また、人間性を養うために必要な要素なのです。
ウソには2種類あります。
人を面白くするウソと、自分の利益を守るための虚偽です。
虚偽に対しては、厳しく罰する必要がありますが、人を楽しませようとついたウソについては、笑って済ますくらいの寛容さが必要です。
しかし、現実、それほど明確に前者と後者を割り切れないところもあります。
子どものウソをもっぱら見逃すことはいけないことだと思います。
しかしまた、一旦受け入れてあげるということも大切ではないでしょうか。
秘密
秘密を持つことは子どもの成長に非常に大切です。
教師の中には、生徒の個人的なことをいろいろ聞きたがる人もいます。
それは、日本における理想的な人間関係が、一心同体という表現で表されるように、お互いの間に何ら秘密のない状態であるからです。
「お互い秘密はなし」という考えは、相手のプライバシーにも疎くなります。
相手を尊重するためには、プライバシーを守る、秘密を受け入れるという考えでいることが必要です。
秘密を持つということは、それだけで他者との間に距離を保つことができます。
子ども自身、自分が劣等だと思う部分は忌避すべきものだと考え、何らかの秘密を隠し持とうとします。(これは子どもの自立やアイデンティティの確立にも大きく関わってきます。)
これは、対教師だけでなく、対友達でも起こり得ることです。
しかし、本当は秘密というものは他者と共有したいという思いも同時に持つものです。
みなさんにもきっと、秘密を誰かと分かち合うことで心が軽くなったという経験があるのではないでしょうか。
秘密を共有するためには、両者の間に深い共感的な人間関係が必要になります。
もしも子どもの「秘密」「悩み」を分かち合いたいと思うのならば、無理矢理ではなく、まずは共感的な人間関係の構築から始めなければいけません。
いじめ
「いじめを許さない」という態度を大人が厳しく持つことは大切です。
しかし、子どもたちの心を掌握することで問題を無くそうとする単純な考えに陥ってはいけません。
子どもの世界は、大人が簡単に理解したり、支配したりできるものではないからです。
「いじめ絶対反対」という態度が、子どもの行動を規制したり、支配したりする方に偏って硬直的な指導や関係性になってしまうと、子ども固有の世界を壊すことになる危険性があることは自覚しておきましょう。
大人からの圧力
昨今、いじめが陰湿化し、過酷になっている要因の一つとして、子どもの心の中に鬱積した感情が非常に強く大きくなっていることが挙げられます。
大人たちは、子どもに対して無用の圧力を加えていないか再確認しなければいけません。
現在の子どもは大人の監視が届きすぎて「よい子」としての規格に嵌め込まれて、育てられているようにも感じます。
ここには、日本で個性的な子どもがいじめられやすいことにも繋がります。
集団として知らず知らずのうちに、異質のものを憎み、排除しようとする。
これは子ども同士だけでなく、教師にも無意識に態度として表れることがあります。
そのような態度は、無自覚にいじめを支持していることにつながってしまいます。
逆に、教師が子どものそれぞれの個性を評価する態度を持っていると、いじめの防止に繋がります。
個人主義の台頭
個人主義の台頭から、昨今人間関係の希薄さが伺えます。
このような希薄さの中で育ってきた子どもは、いじめる側になっても、いじめられる側になっても、そこから抜け出すための「心のつながり」を持ち合わせていません。
もしも「心のつながり」があれば、いじめる側になっても、どこかで止める気持ちが働くはずです。
いじめられる側になったとしても、本当に耐えられなくなった時に助けを求めることができるはずです。
教師としては、個人主義が台頭する今の時代だからこそ、他者との関わりや他者への理解、共感的な人間関係の形成に尽力する必要があります。
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終わりに
日本の親や教師は、教えたり指導したりすることにせっかちで、子どもの中から育ってくるものを待つことが中々できません。
子どもの心の中から悪と見える形をとって芽生えてきたものが、どのように変容するのか、その経過を見る前に、その芽をすぐにむしり取ってしまう大人の「善意」が強すぎるのです。
子ども自身の成長の可能性に信頼をおいて待つ。
大人がもう少し辛抱強く悪と向き合うことで、子どもはもっと生き生きと豊かな人生を歩んでいけるのではないでしょうか。